マンションジャーナル

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「アスチルベはもう枯れない」:スターチス

「アスチルベはもう枯れない」:スターチス

第一話:「グッバイスイートピー」はこちらからご覧ください

第二話:「ハローアスター」はこちらからご覧ください

第三話:「ロンリークローバー」はこちらからご覧ください

第四話:「ネフロレピス」はこちらからご覧ください

射す光は純白かつ清廉で、クリーム色のマンションをみるみる浄化してゆく。

光と陰の境界線が鮮明に引かれ、一つの建物に二つの世界が入り混じり、奇跡的なバランスを保っているように見える。

隣にいたはずの御婦人はいつの間にか階下へ降りており、その後ろ姿は一層小さく、儚く見える。

最後に一言交わしたかった三山は、少々残念がりながらゆっくりと階下へ降りてゆく。

あらためてマンションを見上げると、塗装が大胆に剥げ落ちており、塗り直すよりも残りを剥がす方が短時間で済むと思われるほどの廃れようである。

しかし、そこには弱々しさなど微塵もなく、むしろ堅強で、それでいてどこか懐かしさも併せ持っているようだ。

外観とは対照的と言うべきか、階段の右手にある自転車置き場は綺麗に整列していて、そのちぐはぐさに思わず頬が少し緩む。

黄色い話し声に振り向くと、女学生たちが楽しげに、こちらを一瞥する素振りもなく、傾斜のゆるい八幡坂を軽快に進んでいく。

かつて大手金融機関に勤めていた当時の三山は、学生を見かける度に、強烈に羨ましく、痛烈に妬ましく、猛烈なる自己嫌悪に陥ったものである。

努力をして目立つほどに疎まれる、そんな二律背反な世界を見てきた三山にとって、かつて学生だった自分を棚に上げる厚顔無恥も厭わず、臆面なく日々を謳歌する学生を心から羨ましく思っていた。

しかし、学生時分の三山がそうであったように、あるいはこれからの学生予備軍がそうであるように、人に悩みは尽きず、むしろ悩むことこそが人間の真価とすら言える。

悩むというのは素晴らしく芸術的かつ人間的であると、そう思えるようになったのは、ここ数ヶ月のことである。

女学生たちが上ってきた方向へと視線をやると、一人の男性が慣れた足取りでこちらへ向かってくる。

この道を何度も通ってきたような、迷いのない足取りである。

くるぶしがやや見える丈のズボンに、色の抜けた朱色のシャツ。

三山と目が合うと、旧友へ向けるが如き喜色満面の笑みを浮かべ、三山も思わず頭を下げる。

三山の前で立ち止まると、遠目よりもずっと背が高く、色の白く線の細い、女性的な体つきをしている。

香水ではない、少し甘い花の匂いがする男性だ。

「高井様でいらっしゃいますか?」

「はい、お待たせしちゃったみたいですね」

ゆっくりと、独特な間をあけて話すその男性は、この忙しない現代社会において数少ない、『余裕を持った』人に見えた。

洒脱な雰囲気を放ちつつも、着ている洋服は丁寧にアイロンがかけられ、細い腕には嫌味のない高級そうな腕時計をつけており、育ちの良さがよく分かる。

「このマンション買いますので。どうしたらいいでしょうか。契約ごとはあまり慣れてなくて」

「買うって、このマンションをですか?」

老若男女、誰しもが失言と認めるであろう、まるで子供たちが一生懸命並べたドミノを蹴り飛ばすような暴虐さであったが、男性は屈託のない表情で高らかに笑った。

「こんなボロマンションですもんねぇ」

少年のように笑う男性を尻目に、「よっぽどの変わり者」という先ほどの御婦人の予言じみた言葉を思い出す。

「いえ、まぁマンションもそうなんですが、まだお部屋も見ていないのに、と思いまして」

「三山さんはとても素直な人なのですね。営業職はさぞ辛いでしょう?」

「いえ、決してそんなことは。高井様はどのようなお仕事を?」

「大学で哲学を教えています。終わりがなくて途方もなくて、それでいて特に意味もない、そんな仕事です」

謙遜ではない、心からそう思っているような表情で飄々と話す。

「本当に大切なものは目には見えません、サン=テグジュペリも言っているようにね。このマンションの外観とか古さは私にとって大切なものではないということです。とは言うものの、一応お部屋は見ておきましょうか」

崩れ落ちそうな階段を登っている最中も、彼はどこか嬉しそうに、まるですでにこのマンションの住人のような堂々たる足取りで、前へ前へと進んでいく。

二階の一番奥の角部屋へ入ると、線香と珈琲の入り混じったような匂いがふわっと溢れ出してくる。

リビングの窓からは、先ほどの御婦人が言っていた墓地が、一切の遮蔽物なく眼前に広がっている。

「高井様、この墓地のことはご存知でしたか?この至近距離、かつ特にこのお部屋は墓地が目の前ですので、なかなか買い手がつかないようなのです」

「ええ、知っていました。と言うより、これが私にとって大切なものなのです」

「と、言いますと?」

「ええ、まぁあまり気持ちの良い話ではないといいますか、些か猟奇的とも聞こえる話だと思いますが、私の母がね、三ヶ月前に亡くなりまして。私が生まれた時にはすでに父親と離婚していて、いわゆるシングルマザーとして私を育ててくれました。ちょうど先月ですね、墓参りであの墓地を訪れた時に、あぁこんなすぐ近くにマンションがあるのだと気付きまして。特に理由もなく、そのマンションの前まで歩いていくと、ちょうどこの部屋が売り出されていたんです。聞くところによると、ちょうど母が亡くなった日から売りに出されたそうで、しかもこのお部屋が一番母が眠っているところに近いんですよ。何だか運命的なものというか、導きのようなものを感じてしまって。周りからすると気持ちの悪い話かもしれませんが、私はここに住みたいと思いました」

穏やかな表情で照れ臭そうに話す姿は、この世で最も清潔で、何にも代え難い尊さがあった。

ふと、彼の母親が眠る墓前に目をやると、鮮やかな紫とピンクのスターチスが供えられている。

周りの墓石にも花は供えられているが、その一角には愛が溢れているように見える。

「あぁ、スターチス。母が一番好きだった花です。三山さんとお会いする前に供えて来たんです」

「お会いした時に少し甘いお花の匂いがするような気がしましたが、あのお花だったのですね」

「ええ。私も花については詳しくもなければ、特別思い入れもないのですが、この花だけは好きなんですよ」

申込書に記入している男性を見ながら、広大な海の水面に雲海が投写されているような、深い感慨に浸る。

決して、契約をもらえるからではなく、彼の人生の一欠片になり得た自分がどうしようもなく誇らしかったからで、しかし同時に、これは自分でなくともよかったはずだ、とも彼自身思う。

誰でもよかったのだ。

誰が彼をここへ連れてきても、彼の意思が歪むことは決してなく、何人たりとも歪めることは出来ず、予定調和の如く売買は成立していたはずである。

それでも三山は、心から彼と出会えたことに充足感を覚える。

素敵な映画を観終わった後のような、あるいは甘酸っぱい恋愛小説を読了した後のような、爽快感がある。

書き終えた彼は満足気に、もう一度窓から外を満遍なく見渡す。

「三山さん、今日はありがとうございました。忘れられない一日になったような気がします」

「ええ、私もです」

会話の一つ一つが、彼の一挙手一投足が、大脳新皮質に刻み込まれ、決して今日という日を忘れることはないだろうと思う。

より正確に言うのであれば、この風景も感情も、忘れるべきではないと思った。

会釈をして八幡坂を下ってゆく男性を見送ってからも、しばらくその場から動く気にはなれなかった。

「あれ、まだいたのかい」

聞き覚えのある声の主は、先ほどの御婦人である。

布製のカバンに野菜やら肉やらを詰め込んで、とても重そうだ。

「すみません、長々と。もう帰りますので」

「やっぱり変わり者だったかい?」

嬉しそうに目を輝かせながら問いかけてくる彼女にも、ここに住み続ける理由があるのだろうか。

「大切なものは目に見えないんですよ」

何か言いたげだったが、それ以上は何も言わず、彼女は階段を登っていく。

落ち始めた太陽は至近距離から街を赤く染め、クリーム色だったマンションは、輪郭のぼやけた橙色へと変わっていく。

重たいカバンを肩にかけ、落ちる太陽の足元へと、八幡坂を降りてゆく。

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著者について

コンサルティングセールス谷鴻佑
仲介手数料最大無料の中古マンションWEBサービス「カウル」にて、中古マンションの購入・売却のコンサルティング営業を担当。
不動産に関する広範囲な知識を元に、分かりやすい情報提供と、お客様とって最高の家探し、マンション売却のお手伝いをしています。

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