マンションジャーナル

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「アスチルベはもう枯れない」:ロンリークローバー

「アスチルベはもう枯れない」:ロンリークローバー

「第一話:グッバイスイートピー」はこちらよりご覧ください

「第二話:ハローアスター」はこちらよりご覧ください

「あの、三山さんですか?」

透き通った、それでいてハリのある声に呼ばれた三山は、自分の苗字を呼ぶその聴き慣れない声色に、一瞬違和感を覚えながら振り向いた。

綺麗に染まった栗色の髪と、やや切れ長な目が印象的なその女性は、宮脇ですと名乗り、ぺこりと頭を軽く下げた。

少し甘ったるいシャンプーの匂いが、下げた頭の生み出す気流に乗って、三山の鼻腔をくすぐる。

「宮脇様、お待ちしておりました。本日ご案内させて頂く、三山と申します。どうぞよろしくお願い致します」

彼女はとても不思議な目つきをしていた。

やや切れ長な目のせいだろうか。いや、そうではない。

もっと本質的な、様々なものを見てきた、そんな目をしている。

悪意などは感じないが、その目で見つめられることには、何故か抵抗感が芽生える。

すべてを見透かすような冷たい瞳。

「本日はお一人でいらっしゃいますか?」

「二人に見えますか?」

ブラックユーモア溢れる冷たい瞳。

エントランスから、二十八階にある部屋までのエレベーターで過ごした時間は、三山の人生の中でも三本の指に入るほど長く感じられた。

案外身近に潜んでいる相対性理論を体感し、舌を出したアインシュタインと視線が絡む心地がした。

五階から六階に差し掛かるあたりで、三山は彼女にこう言った。

「本日はお天気も良いですし、きっと二十八階から見る景色は素晴らしいでしょうね」

すると彼女は、眉一つ動かさずにこう言った。

「ですね」

それきりエレベーターは、重量制限を超えかねない重い空気を乗せながら、間もなく目的階に着こうとしている。

人と人との会話とは、あんなに短い単語で成立するものだったろうか。

しかし、自分も悪いのである。

三山は極端に臆病なその性格から、人を見る目には長けていた。

正確に言えば、空気を読むこと、目立ちすぎないこと、そんな切ないバランス感覚を身につけていて、おかげでこれまで人と正面から衝突したことのない、平和で退屈な人生を歩んできた。

初めて会った瞬間から、くっきりと引かれた彼女との線には気付いていたのだから、下手な詮索はせず、静かに寄り添うべきだったのかもしれない。

この、仕事として踏み込まざるを得ない右足と、一歩引きたがる左足のバランス感覚は未だなく、いつも軸足の定まらない彼は、時々どうしようもなく冷めていく。

エレベーターが最後の力を振り絞り、目的階に到着する頃には、三山はこの光沢のある煤竹色のエレベーターに深い愛情を感じていたが、もう一度下まで彼らを運ばなければいけない重圧に身を委ねるようにして、下層階まで一気に下りていってしまった。

部屋の前に辿り着き、三山の仕事はここから始まるわけであるが、もはや一種の達成感にも似た満足感があって、油断している自分の表情に気付き、一度強く目を瞑り、気持ちを入れ直す。

扉を開けると、文字通り別世界の風景が広がっていた。

大理石の玄関に、小さな靴店の在庫であれば全て収納出来そうなほどのシューズボックス。

日当たりは良好などという生温いものではなく、まるでこの部屋だけに別の天体から光が供給されているように思える。

トラさんを連れてきたら喜んで走り回るだろうと考えながら、同時に、この部屋に一人で暮らす自分を想像し、その孤独さに戦慄する。

一体この女性は、何故このような部屋に一人で住むつもりなのだろうか。

当の本人は、別段顔色も変えず、真っ先にリビングの窓へと歩み寄っていく。

眼下に広がる東京湾を見下ろす彼女の背中は、どこか寂し気であるが、その表情は見えない。

耳にかかっていた艶のある髪が重力に耐えきれず、ふわっと垂れ落ちると同時に、彼女の中の張り詰めていた何かが解ける音が聞こえた。

沈黙に耐えかねる三山の精神的な弱さが、判断を鈍らせ、気付くと彼女の背中に言葉を投げていた。

「こちらのお部屋は」

言葉を遮り、彼女は振り返らないまま、口を開く。

「こんな広い部屋に何で、って思っていますか?」

芯を食ったその言葉に一瞬怯む。

「いいえ、そんな風には。お一人暮らしで八十平米。確か、以前にもそんなお客様がいらっしゃったと思います」

無論、新人の三山はそんな人に出会ったことはないし、勤続年数を重ねても出会えるとは思えなかった。

部屋は広いに越したことはないかもしれないが、これはあまりに広すぎる。あまりに孤独の許容量を超えているのだ。

「そうですか」

「将来、例えばご両親と同居されたり、ご家族が増えることもあるかもしれませんし、広めのお部屋でもいいと思いますよ。例えば、このエリアだと」

「私が今日来たのは」

またもや遮られる三山の言葉は行き場を失い、そのまま床にそっと落ちてゆく。

そこで彼女がようやく振り返り、一つ大きく息を吸う。

日差しを一身に背負った彼女は、神々しくも儚い、人とは別の生き物にも見えた。

彼女の顔には、あらゆる感情の色があって、絵具を載せたパレットのようだ。

「思い知れるかなと思ったんです。広い世界で、私一人が必死になって意地を張って走り回っていることが、いかに滑稽なことかを。あそこにビルが見えるでしょう?」

彼女の指差す先には、全面ガラス張りの小洒落た形をした高層ビルがあった。

「あの会社で広告関係の仕事をしています。かつては大企業と呼ばれ、知らない人はいないほどの会社でしたが、五年ほど前から業績は下火で、社内の雰囲気もすっかり暗くなってしまいました。去っていく人もたくさん見てきました。この五年間、会社を立て直すために、すべてを犠牲にして仕事に明け暮れてきましたが、周りは対照的に冷めていくように見えました」

三山は、突如滑らかに動き出した彼女の口元に見惚れながら、その突然の独白にどう対応していいものか分からぬまま、呆然と立ち尽くしていた。

「ちょうど一週間前のことです。私の上司で、部署を統括するマネージャーの横領が発覚して、ニュースでも新聞でも大々的に取り上げられました。落ちぶれた大企業なんて、マスコミの格好の餌食ですよね」

あぁ、あの会社か。

昨晩も、ニュース番組で女子アナが機械的に事の顛末を語るのを見た。

経済学者の真っ当な評論の後に、バラエティタレントが的外れなコメントに舌を熱くしている姿が印象的だった。

「自分の中で、糸の切れる音が聞こえました。あぁ、この五年って何だったんだろうと。能力はなくても、やる気でカバーしてきたような私が熱を失った時、私は誰なんだろうと。世の中の広さを知れば、この目で見れば、自分の中で吹っ切れる部分もあるかと思ったんですけど、人間そんな単純には出来ていないようですね」

筋肉の収縮によって無理やり作られた笑顔は、彼女の弱さと強さを象徴するようであり、彼女の表情の中でも際立って美しく見えた。

手元に広げていた資料をパタリと閉じる。

誰にも触れられぬほどの気高い信念と、同じ熱量を他人に求める残酷さ。

正しくない世界の中で、正しくあろうとする徒労にも似た彼女の五年間。

そんな生き方を他人事とは思えず、彼女の目を見る。

そこには先ほどの冷たい瞳はなく、諦観したような、穏やかともとれる黒々とした瞳があった。

空間を切り裂くように、彼女の右のポケットのあたりで電子音が鳴り、彼女は見惚れるような手つきで携帯電話を取り出す。

その内容は、表情から察するに、あまり喜ばしいものではないようだ。

「またトラブルですって。一ヶ月ぶりの休みだっていうのに。三山さん、付き合わせてしまって申し訳なかったです。私、もう行きますね」

一瞬たりとも速度を落とさずに落ちてゆく下りのエレベーターは、まるで彼女の五年間のように呆気なく感じた。

エントランスを出ると、空は厚い雲に覆われ、世界が少しずつ縮んでいるような錯覚を引き起こす。

「それでは、また」

一つ一つ丁寧に言葉を選ぶように、彼女は言った。

「ええ。いつでもご連絡ください」

ゆっくりと品川駅方面に歩み始めた彼女の背中は、心なしか出会った時よりも大きく見えた。

何も言えず、何も出来なかったことに対して、早くも三山の一人ぼっちの反省会は開催され、いつも後悔をコツコツと積み上げるものだが、今日に限っては、それでもいい、と三山は思う。

何故だか彼女には、もう一度会えるような気がして、きっとその時はちゃんと『会話』をしているように思えてならないのだ。

決して運命論者などではないが、それは予感というより確信に近いもので、それが何故かは三山自身にも分からない。

例えようのない幸福感に包まれながら、もう一度施錠確認に向かう心配性な彼の背中も、きっと一回り大きく見えたことだろう。

著者について

コンサルティングセールス谷鴻佑
仲介手数料最大無料の中古マンションWEBサービス「カウル」にて、中古マンションの購入・売却のコンサルティング営業を担当。
不動産に関する広範囲な知識を元に、分かりやすい情報提供と、お客様とって最高の家探し、マンション売却のお手伝いをしています。

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