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「アスチルベはもう枯れない」:グッバイスイートピー

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「アスチルベはもう枯れない」:グッバイスイートピー

およそ一週間降り続けた記録的な大雨により、街にはどこか湿っぽい匂いと、壊れた傘の残骸が残された。

雨が降ると、どこから流されてきたのか出処の不明なゴミであったり、マンホールから逆流した水などが溢れ出し、地上には期間限定的に、普段奥に押し込まれている「核」が露わになる。

それでいて、天から舞い落ちる雫は純度の際立つ澄んだ色をしており、天と地に明確な境界があることを感じさせる。

一定周期で降り注ぐ雨は、まるで人間が習慣的にお風呂に入るように、汚れた地上を浄化する地球規模の大掃除のようだ。

寝ぼけ眼をこすりながら、三山はベットの脇にある小窓から仄暗い曇天を眺めながらそんなことを考えた。

重い体を半ば強引に起こし、ふらふらと洗面台に向かう。

蛇口を捻ると、当然の如く透明な水が勢い良く飛び出し、三山の暖かい手をみるみる冷やしていく。

この水も、いつの日かどこかで天から舞い落ちた水なのだろうなどと考えながら、特にありがたみを感じるわけでもなく、バシャバシャと顔を洗う。

リビングへと向かい、洒脱な部屋において一種の異質な存在感を放つ、昔ながらのデザインがお気に入りのカレンダーに目をやる。

あぁ、今日は土曜日なのだ。

数ヶ月前の彼であれば、前日の酒気を帯びたまま、まだあの暖かい布団から這い出せずにいただろう。

時計の長針と短針が頂上を過ぎた頃にのっそりと布団から出て、撮りためたドラマを見たり、愛してやまない愛猫のトラさんにご飯をあげつつ戯れ合ったりして、無為に無意味に無頓着に、時間を貪っていたに違いない。

彼は二ヶ月前に、大手金融機関を退職し、新進気鋭の不動産仲介の会社に衝動的に入社を決めた。

学生時代から『君子危うきに近寄らず』が信条だった彼の選択に、周りの反応は文字通りの賛否両論であった。

高校から4年生大学へ進学し、可もなく不可もない成績を器用に保ち、これといった問題も華やかな功績も残さなかった彼が選んだ道を、彼の両親は表面的には応援しながらも、その表情に不安を隠し切れずにいるようで少し胸が痛んだ。

両親の気持ちを忖度する余裕こそあれど、この選択は間違っていないという輪郭のない自信と、そう信じたいという藁にもすがる自分の狭間で、彼自身もまた、些か視点の定まらぬ数日間を過ごしたのであった。

 「要は、退屈だったんだろ」

彼の繊細な感情や、明晰な分析を踏みにじるかの如く、そう言い放ったのは、幼い頃から共に過ごしてきた、いわゆる幼馴染であり、石永という男である。

幼稚園から大学までの道のりをもれなく共に過ごし、煌びやかな高校の文化祭も、阿鼻叫喚の試験前も、赤面の恋慕ですら、彼と分かち合い、傷つけ合い慰め合って、今日に至るわけであるが、彼は生来面倒見の良い男であり、その包容力に三山も存分に甘えてきたのだった。

就職活動の時期が訪れ、三山を驚かせたのは人気企業の倍率でもなければ、息をするように嘘を吐く就活生でもなく、石永が起業という道を選択したことだった。

一瞬、彼がとても遠い存在になることを恐れたが、その考えはすぐにかき消した。

平静を保ちながら石永を激励していたあの時の三山は、今の彼の両親と同じ顔をしていたのだろう。

彼自身、何故自分がこの選択を下したのか、上手く言葉に言い表せずにいることに心が晴れなかったが、行きつけの居酒屋に現れた石永の顔を見た途端、自分は困難さすらも楽しむ彼に憧れたのだと、ある種こじつけともとれる理由をその手に掴み、離さぬよう握りしめた。

石永の風貌は、かつての精悍な青年から、明らかに変化していた。

言葉にできぬ感覚的なものではあるが、まるで短剣一つで冒険に出たかつての主人公が、ゲームクリア目前ともなると、鎧を纏い、よく切れそうな刀を携え、そして何より多くの仲間を引き連れているような、そんなものを彼の『背景』に感じた。

陳腐な表現をしてしまうのであれば、彼は疲労を滲ませながらも、その表情は輝きを放っていた。

かつては同じものに熱中し、同じ壁に突き当たってきたはずの彼が、今は一経営者としての風格を、早くもその身に纏っていた。

「お前は本当に真面目だよな。ご両親が動揺しているのは、経験したことがないからだろう。お前は自分から、例えば『ピアノが習いたい』とか『塾を辞めたい』とか、いわゆるワガママを言わない子だったんだよ。それが今になって、誰もが知っている超大手金融機関を辞めて、創業三年目の、言ってしまえばどこの馬の骨とも分からん会社に入ろうとしているわけだ。人間誰しも、経験したことのないものには拒絶反応を示すし、経験したことがないからどう対応していいかも分からないんだ。要するに、賛成とか反対とかじゃないよな、分からないんだよ。」

彼なりの慰めなのだろう、彼はビール瓶のラベルをいじりながら、素っ気なく言った。

「うん、正直なところ正しい判断かどうかなんて、自分でも分からない。なんだろう、今まで真面目にやってきた分、少し無茶をしたくなったのかもしれない」

「最近のキレる若者みたいな言い草だな」

石永は気遣うように戯けて笑った。この笑顔に何度救われ、何度依存してきたことか。

思い返せば、彼に何と重荷を背負わせてきたことか。

「何か生きてるって感じがするよ、最近は。そりゃそうだよな、頑張るもサボるも自分の生活に、人生に直結するんだから。これ以上のスリルはないよ、俺らのようなリスクをとらずに生きてきた連中なら尚更だ」

怖くはないのか、一瞬そう聞こうとしたが、その言葉をビールとともに飲み込む。

怖いとか怖くないとか、そういった話ではない。

やると決めてただ直向きにやっている、そんな平凡で最も過酷な繰り返し。

やりたいことをやるという、人間としての本能に従順に、向き合っているだけなのだ。

迷いも畏怖も蹂躙するような、確固たる男の前で、すでに嘆く気力すらもなく、機械的にビールを口に運びながら、ふとこれまでの自己選択を逡巡する。

一体、何を恐れているというのか。

失うものもなければ、失ったことに気付くほど愛惜するものもないというのに。

所詮、恵まれた環境に身を委ねてきただけで、仕事を資金調達の手段としか捉えていなかっただけなのである。

ふと正面に目にやると、いつの間にか石永は机に突っ伏して眠りについていた。

明日も光り輝くであろうその男の寝顔を見ていると、あらためて石永の顔つきの変化が見て取れる。

人は変わる、そんな使い古された常套句が、スッと心に落ち、実体験を以って理解する。

写真でしか見たことのなかった世界遺産を実際に現地で見るような、驚嘆と既視感の入り混じった、何とも言い難い感覚だ。

会計を済ませ、大学生らしき店員に、終電前に起こしてやるよう伝え、店を出る。

もう三月も終わるというのに、夜更けはまだ冷える。

酒気で火照った頬を冷たい風が撫でてゆき、血の巡りを生々しく感じる。

コートのポケットに手を入れると、銀行員時代に習慣的に携帯していた小ぶりな電卓に手が触れた。

それを取り出し、社会人になってから現在までの時間を計算してみる。

石永との間に立ちはだかる壁は、時間にしておよそ二万六千時間。

取り戻すには一筋縄にはいかないと、自嘲しながら電源を落とす。

次にこの電源を入れる時は、ちゃんと足し算が出来るように、足し算で成り立つ方程式の上で生きているようにと、詩人めいたことを反芻しながら、地下鉄へ繋がる階段を一段ずつ降りてゆく。

そこには秘めたる決意の大きな背中があった。

第二話:ハローアスター

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