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人気のベイエリア横浜「みなとみらい」!“MM21計画”の長く厳しい道のり

人気のベイエリア横浜「みなとみらい」!“MM21計画”の長く厳しい道のり

 今でこそ発展著しい「みなとみらい」エリアですが、そこに至る過程には長く厳しい道のりがありました。「みなとみらい」の基本構想である“MM21計画”が事業としてスタートしたのは1983年(昭和58年)で、今から30年以上も前なのです。

1991年から1993(平成3~5年)に於けるバブル崩壊時期、そして2008年のリーマン・ショックなどの影響を受け事業の先行きが心配された時期もありました。今回は、そんな「みなとみらい」の苦難の歴史をご紹介します。

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“MM21計画”の背景にあった課題

fa85c4758dbd4b3f1b04efde6e7a28ad_sみなとみらい地区は、「そごう横浜店」や「スカイビル」のある横浜駅東口(西区)から、「横浜ランドマークタワー」のある横浜港に面したエリア(中区)に広がる地区。

そして、横浜駅東口周辺の「出島地区」、「横浜ランドマークタワー」を中心にしたオフィス開発がメインの「中央地区」、観光客に人気の「赤レンガ倉庫」や「コスモワールド」がある「新港地区」があります。

今でこそ「みなとみらい地区」は一体化されていますが、以前は桜木町を境に横浜駅周辺エリアとビジネス街である関内エリアの二つに分かれていました。

というのも、横浜駅と関内駅の間にある桜木町には三菱重工株式会社横浜造船所があり、この広大な土地が二つのエリアを分断していたのです。

当時の横浜は東京のベットタウンという色彩が強く、横浜市内の就業人口を増やすという行政の思惑もあって、桜木町周辺の再開発が急務になっていました。

そして、船の大型化の流れによって設備が対応できなくなったこともあり、造船所を移転させてこの地区を再開発し、横浜の都市機能を高めようというプロジェクトが構想されたというわけです。

横浜駅周辺と関内エリアを結ぶアクセス

YK150906553046-thumb-815xauto-19449横浜駅と関内駅を結ぶのは、JR京浜東北線と横浜市営地下鉄だけ。

東急東横線は高島町駅を経由して桜木町駅が終点で、関内や中華街、元町へは直通ではいけませんでした。中華街や元町へは、JR京浜東北線の石川町駅から歩いて行くしかなかったのです。

極端にアクセスが悪いというわけではありませんでしたが、それぞれが別々の街という印象が強かったわけです。MM21計画には、この二つのエリアを一体化させることによって、横浜市中心部の都市機能を強化拡充させる目的がありました。

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MM21計画の経緯

まず1985年に「そごう横浜店」が横浜東口に開業し、1989年に本牧埠頭と大黒埠頭を結ぶ長さ860メートルの「横浜ベイブリッジ」が開通。

大黒埠頭側には遊歩道「横浜スカイウォーク」があり、デートスポットとしても人気のある横浜の新名所になりました(横浜スカイウォークは現在では閉鎖)。また、同年に横浜港をテーマにした「横浜みなと博物館」が開館。pp_akarengatohotel-thumb-815xauto-1269419991年には「横浜国際平和会議場」通称“パシフィコ横浜”が竣工し、帆船のようなデザインで知られる「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が開業。

そして、1993年(平成5年)には「みなとみらい」のシンボルである「横浜ランドマークタワー」が開業しました。

しかしこの時点では、横浜駅東口から関内や横浜港周辺エリアまでのアクセス状況は以前と変わらず、二分されたままでした。「みなとみらい」の苦悩の歴史は、この頃から始まったのです。

「横浜ランドマークタワー」の悲劇

ランドマークタワー悲劇の大きな要因となったのは、「横浜ランドマークタワー」が開業したのがバブル崩壊直後だったこと。

バブル崩壊による景気悪化の煽りを受け、テナントの入居をキャンセルする企業が相次ぎました。それに加えてバブル景気の最中に設定された同ビルのテナント料が高額だったので、なかなか借り手がつかなかったのです。

「横浜ランドマークタワー」の事業主は、三菱グループの大地主である三菱地所。ということで、犠牲?になったのは横浜周辺にある三菱グループの企業とその関係会社でした。

当時、三菱商事の横浜支店は関内にあり、当初は「横浜ラウウドマークタワー」に入居する予定はなかったそうです。しかし、テナントの入居状況が思わしくないということで、半ば強制的な感じで支店ごと移動することに。

さすがの三菱商事もバブル崩壊直後だったので、経費削減のためにオフィスの什器は一切新調することなく、それまで使っていた机や椅子などの什器を持って引っ越したそうです。三菱グループの中核企業である三菱商事でさえそうなのですから、その他のグループ会社や関連会社はさぞかし大変だったことが想像できます。

この一件が象徴するように、“MM21計画”は、バブル崩壊による影響で深刻な状況に陥っていたのです。資金面などの理由で中止になった開発計画も数件あり、暫くの間は手付かずの空き地が目立つ状態が続きました。一時は、この計画そのものが頓挫してしまうのではないかと心配する声もあったくらいです。

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難航を極めた「杭打ち」

「横浜ランドマークタワー」や周辺のビルは、三菱重工業横浜造船所の跡地に建てられています。そのせいかどうかは分かりませんが、地中には瓦礫(通常ガラ)が沢山埋まっていたようなのです。

ですので、この周辺に於ける「杭打ち」は難航を極め、かなり大変な作業でした。

ここでの杭打ちは、先端がスクリュー型をしているオーガドリルで掘削してH鋼を打ち込む掘削系の工法。しかし地中には瓦礫が多いので、なかなか思うようにオーガドリルが入っていかず、時にはドリルの先端が破損することもありました。

そして掘削した穴にH鋼を入れてセメントで固めるのですが、これもまたスムーズに入ってくれず、何度もH鋼を入れなおして打ち込むことも少なくありませんでした。

ここで心配になるのが、H鋼がちゃんと支持層に到達しているのかということですよね。これについては安心して頂ければと思います。そう言い切れる根拠は、二つあります。

一つ目の根拠は、重機のオペレーターや現場作業員たちは「誇り」を持って仕事をする「職人」だったという点です。職人であるオーガドリルのオペレーターは、掘削時の感触で地中の様子が分かるのです。

そして、誇りを持った職人は、決して中途半端な妥協はしません。図面がどうであれ、自分が納得いくところまで堀進めるのです。

そういったオペレーターの感覚を、全ての作業員が理解し共有して仕事をしていました。つまり予算や工期より、仕事の品質を優先していたのです。

二つ目の根拠は、杭を撃ちこむのに苦労するほど硬い「瓦礫」が埋まっていたということ。

そこに速乾性の高いセメントミルクを当初の予定より多く使っているので、結果的に強固な地盤になったというわけです。ということで、基礎については心配する必要はないでしょう。

「みなとみらい」エリアの多くが埋立地

e8ecb2c51818951588097b340d8e8821_sそもそも「みなとみらい」エリアはウォーターフロントの再開発地域ですから、その多くは埋立地です。ということであれば、このエリアの地盤はどうなのか気になりますよね。

ちなみに横浜港に面した「山下公園」は、関東大震災で倒壊した建物などの「瓦礫」を埋めて造られた公園です。

前出の造船所跡地で杭打ちをした工事関係者達の間では、MM21地区一帯の地中にも関東大震災の「瓦礫」が埋められているのではないかと噂されていました。

事実のほどは分かりませんが、もしかしたら、そういうこともあったかもしれません。造船所解体の折に出た瓦礫も埋められている可能性も一方的に否定することはできません。

もしそうであるなら、しっかりした基礎工事が施されていれば地盤は硬いということになります。しかしこの周辺一帯に「瓦礫」が埋められていたなら、どのエリアでも杭打ち工事は大変だったでしょう。

ただ、「みなとみらいエリア」における「瓦礫」については、科学的根拠や公的な資料による裏付けがあるわけではありません。あくまでも噂話と想像の範囲です。

みなとみらいの観光スポットになった歴史的建造物「赤レンガ倉庫」

C778_rtsaretaakarenga-thumb-815xauto-14953三菱重工業株式会社横浜造船所は、1983年(昭和58年)に本牧と金沢区に移転され、その後に1号ドックは1985年(昭和60年)にメモリアルパークとして整備され帆船の「日本丸」が展示されています。

そして2号ドックは、1993年(平成5年)に「横浜ランドマークタワー」の開業に合わせてイベント開催やオープンテラスとして活用される「ドックヤードガーデン」に生まれ変わりました。

これらのドックは、商船用の石造りドックとして日本で最も古いもので、国の重要文化財に指定されている歴史ある建造物です。

いずれのドックも、今や横浜「みなとみらい」の観光名所であり、ドラマのシーンにもよく出てくる魅惑的なデートスポットにもなっていますよね。

造船所のドックもそうですが、赤レンガ倉庫も新しい感性を注ぎ込まれて生まれ変わった建造物です。赤レンガ倉庫は、税関の手続きが済んでいない輸入物資を保管する「保税倉庫」として建設されました。

1911年(明治44年)に竣工した2号倉庫、そして1913年(大正2年)に竣工した1号倉庫は、日本初の荷物用エレベーターやスプリンクラー、防火扉などの最新設備がある建物でした。

その後、赤レンガ倉庫は終戦の1945年(昭和20年)に連合国に接収され、1956年(昭和31年)に解除されて日本に返還され再び保管庫として使用されるようになりました。

しかし貨物のコンテナ化によって他の埠頭に主役の座を奪われ、1975年(昭和50年)頃には貨物の取扱量が激減し、平成元年からは使われないまま放置されていました。

その後も国の施設として管理されていましたが、1992年(平成4年)に横浜市が赤レンガ倉庫の土地と建物を取得して保存活用をすることになりました。

そして約9年の歳月をかけた保存、修復工事が終了し、2002年(平成14年)に新たな横浜のシンボルとして蘇ったのです。1号館は展示スペースなどの文化施設、2号館はレストランや各種ショップといったテナントが入った商業施設です。

以前から映画やドラマのロケで外観が使われて話題になっていましたが、2002年(平成14年)にリニューアルされて、ようやく一般の人が利用できるようになりました。

みなとみらい線によってアクセスが格段に良くなった中華街と元町界隈

kys150906573394-thumb-815xauto-19463↑横浜の中華街

みなとみらい線が開通する前は、中華街や元町へのアクセス手段はJR根岸線か車しかありませんでした。最寄りの駅は石川町なのですが、決して近い距離ではありません。といって車で行っても、道は狭いし駐車場が少ないという状況でした。

山下公園や港が見える丘公園へも、けっこうな距離があって歩くのが大変でした。そういったアクセスの悪さが、みなとみらい線の開通によって大幅に改善されました。

中華街や元町が近くなっただけではなく、昔からの高級住宅街であった「山手エリア」へのアクセスも良くなったのです。今では「みなとみらい」はもちろん、「山手エリア」の人口も増加しているようですね。

まとめ

1983年(昭和58年)に事業がスタートしてから32年の月日が流れ、様々な紆余曲折を経て今の「みなとみらい」があります。昔から横浜は人気の街でしたが、「住みたい街」として脚光を浴びる背景には、「みなとみらい」の存在が大きく影響を及ぼしています。

「みなとみらい」の魅力の裏には、多くの人々の汗と涙が隠されているのです。

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著者について

マンションジャーナル編集部TAKAHASHI
不動産ライター。元不動産会社勤務。長年の業界経験を生かし、かしこいマンションの選び方から不動産投資、住宅ローンなど幅広いテーマで執筆中です。

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